NEW RELEASE[新刊発売のお知らせ]
「丸」(まる)海上自衛隊カレンダー 2025
畏れ多くも軍事誌の老舗「丸」から発行される来年度のカレンダーにわしの作品が掲載された。12月、12カットすべてわしの作品というわけでなく、海上自衛隊のオフィシャルが撮った作品もあれば他の写真家の手によるものもある。一昨年度発行された講談社から出版された「Glorious Fleet」を編集部の方が目にされたのであろう。…
発行 潮書房光人新社定価 2,500円(税込み)
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宮嶋茂樹作品展 東京都硫黄島・北海道国後島
拙著写真集ではないんやが、2023年11月までJCIIフォトサロンで開催されていた同タイトルの写真展のための図録として編集制作された。前回の「宮嶋茂樹作品展 南極観測隊」の図録に続いて2冊目である。諸事情により前回の1,000円からちょいと値上がりして恐縮やが、1,200円。しっかし、1,200円でお釣りがくるほどの印刷の美しさと原稿の内容である。…
著者 宮嶋 茂樹発行 JCIIフォトサロン定価 1,200円(税込み)
君たちはこの国をどう守るか
対談本は「不肖・宮嶋 忍者・大倉の一撮入魂」以来20年振りである。しかし今回は同僚カメラマンという気軽な相手でなく、日本の特殊部隊の父ともいえる伊藤祐靖氏である。自然と身が引き締まろうというもんである。帯に「シン・愛国放談」とあるが、このシンは「シン・ゴジラ」や「シン・仮面ライダー」の人気からあやかったのは言うまでもない。ワシが伊藤氏と同じくした現場としては沖縄県、尖閣諸島魚釣島である。…
著者 伊藤 祐靖 宮嶋 茂樹発行 文藝春秋定価 1,500円(税別)
烏克蘭戰場
こちらも翻訳本だが、親本は文藝春秋社刊の「ウクライナ戦記 不肖・宮嶋 最後の戦場」の中国語版。同じ中国語版の「来説説媒体的流言」(メディアのウソ教えたる)の中国大陸の北京語の簡体字と違い、こちらは同じ北京語でも本格、繁体字通用する台湾で販売されている。…
著者 宮嶋 茂樹発行 燎原出版定価 450元
来説説媒体的流言
河出書房新社から発行された拙著「メディアのウソ教えたる」が中国語版が出版された。本書は高校の教科書等に使用されるなど意外な売れ筋をみせたが、まさか中国語版まで出るとは想像もしてなかった。
著者 宮嶋茂樹発行 新星出版社定価 18.00元(税別?)
Glorious Fleet 日出づる艦隊
1年振りの新刊、4年振りの写真集発売である。さらに10年振りに海上自衛隊創設を記念して出版された。過去50冊以上の拙著出版物の中でも写真集「鳩と桜 防衛大学校の日々」(文藝春秋刊)に続き高価な6,300円(税別)で恐縮やがそれ以上の価値は充分あるのは写真家生活40年以上の不肖・宮嶋が保証させて頂く。
著者 宮嶋茂樹 発行 (株)講談社 定価 6,300円(税別)
ウクライナ戦記 不肖・宮嶋 最後の戦場
久しぶりの活字、しかも紙の実体のある書籍の出版である。しかし、なんで「最後の・・・」なんて書いてしもうたんやろ。いまも3回目のウクライナ行き真っ最中である。いや実際今回ほど体力気力の衰えを感じた取材はなかった。今回のウクライナを最後の戦場取材であってほしい。
著者 宮嶋茂樹 発行 (株)文藝春秋 定価 1,800円(税別)
写真集忘れられた香港 〜the Forgotten State〜
同タイトルのニコンサロンで開催された写真展や図録的に制作した写真集が好評で写真展会場で完売してしまったので、急遽プリント・オン・デマンドで制作することになった。こちらは縦位置仕様なので、「歴史は夜作られる」のように変則的なサイズにならず、図録仕様と全く同じサイズと内容になった。
発行 メディア・ドゥ定価 3,200円(税別)
写真集歴史は夜作られる 〜The Night Ranger〜(自費出版版)
明石で開催された同タイトルの写真展の目録のつもりで制作したが、意外と好評どころか会期中全部数売り切れたのに味しめたというより、もうちょっと質の高いものにと第2刷に踏み切った。初版より2カット差し替え、3カット増やしたため、ぺーじ数も当然増え、さらにその増えた分だけ重くなるので、綴じも強化したため初版より若干割高となった。ほとんどは写真展に展示された作品だが、写真集はデザイナーの森本氏のセンスでセレクトしてもらったため、若干差し替えたり、また増やした結果である。
著者 宮嶋茂樹 印刷・製本 (株)メディアドゥ 装丁・レイアウト 森本眞実 発行 不肖・宮嶋 写真事務所 定価 4,500円(税別)
参考書籍
幸福への道
2回目のウクライナ取材から帰国後、「週刊文春WOMAN」の井崎彩編集長より、異色のワシにお声がかかり、対談の運びとなり、今回、他の多数の対談相手の方々に加え、単行本化された。著者の岡村氏の本職はご存じの通り、シンガーソングライター、ワシみたいに写真を撮るしか能のない男にとって、無から有を生み出す音楽家はまさに凡人を超越した才能を持たれるんやろう。ワシは音楽のセンスは全く持ち合わせてへんが、ヴィジュアルはプロや。岡村氏はその音楽性の特徴はやはりライブに出てるんやろう。サラリーマンを思わせるスーツ姿に汗だくでシャウトする様はシュールで、かつその見た目のギャップでまず驚かされる。さすがに途中でシャツは着替えられるが。
正論 12月号
今月の連載は東北で実施された「ブリュネ・タカモリ24」と銘打たれた日仏陸軍による共同訓練である。取材地は宮城県王城寺原演習場と岩手県岩手山演習場、近接戦闘訓練と総合訓練の間に3日間という微妙な空白期間があったため、いったん東京に帰った同業者や仙台をベースにした者もいたが、わしは東日本大震災取材時のそれからが気になり、宮城県南三陸と岩手県一関に宿泊した。南三陸ではパックツアーであのホテル観洋に2泊、一関ではこれがまあどこも一杯、震災直後はグリーンホテルというビジネスホテルが風呂無しというか燃料不足で水しか出ないシャワーでしのいでいたんやが、そこもいっぱい、震災発生直後にもかかわらず、健気に姉妹で営業されていた居酒屋も代替わり、そりゃあそうか、あれからすでに13年、一回り以上や。
ストライク アンド タクティカル マガジン 2025年 1月号
今月の連載「不肖・宮嶋 写真館」は3カ月ぶりに訪れた能登半島の、今回は震災取材でなく、豪雨災害取材であった。まったくこれが天災の無慈悲、残酷なとこである。よりによって、正月に震災に襲われるだけで充分ひどいっちゅうに、1年もたたず、しかも米の収穫目前にして今度は豪雨、さらに山津波に襲われたのである。しかし…元日の震災発生直後もそうやが、なんで専門誌はじめ週刊誌、雑誌の取材は能登半島にまで来ないんやろ。専門誌にいたっては自衛隊のアクチュアルな活動が目の当たりにでき、それを判断する機会ともなり、かつ新聞やテレビにできん長い視点で復旧復興支援を取材でき、国民に関心を呼び起こすこともできる機会になるっちゅうに。もはやそないな体力も残ってないんやろか?本連載用には「BRUNET TAKAMORI 24」の取材した写真もおくったが、そちらは野口卓氏が取材されたということやが、11Pに1点、12Pに3点、13Pにも1点、さらに14Pに1点、15Pに1点と多数わしの写真が掲載された。国内のしかも自家用車での遠方出張は思いのほか取材費がかかるので、これで少しは回収できるであろう。
産経新聞 7月12日号
今回の「話の肖像画」は連載12回目でやっと大学進学である。写真は日大寮、正確には日本大学武蔵俊英学寮の地下の暗室である。写真は進学直後というより、3,4年生のときやろか、当時はデスクライト以外の電気製品の使用を禁じられていたので、冬場の寮内は凍えたが、地下の暗室はなおさら冷え、在寮中はしもやけとあかぎれに悩まされた。それで素手で現像、停止。、定着液に漬けていたから一向に治らなかった。それでも当時日大本部厚生課の板垣課長の仲介で藝術学部写真学科の石井鐵太主任教授のご厚意で4X5の引き伸ばし機まで中古で払い下げていただき、学内より広い暗室で水道代も気にせず、徹夜で暗殺作業を続けることができた。
産経新聞 7月11日号
今回の「話の肖像画」連載11回目でやっと高校を卒業までこぎつけた。あれから半世紀たって、この連載がきっかけとなったわけではないが、卒業後初めて白陵中学高校の同窓会が開催される予定となった。開催地が学校に近い姫路ということもあり、関東在住のOBはちと遠いが、ワシも万難を排し出席する所存である。今回の連載のタイトルにもある通り、もはや「スパルタ教育」という言葉自体が死語になりつつあり、いまや犯罪扱いである。語源は古代ギリシャの都市国家「スパルタ」で行われていた忠誠心のある兵士のための「教育モデル」というから、かなり「古い」考え方には違いないやろう。
産経新聞 7月10日号
「話の肖像画」連載10回目でもまだ高3である。まあそんだけ白陵中学高校で過ごした6年間が残りの人生に与えた影響が大きいと聞き手やった芹沢記者が判断されたのであろう。あと写真も多数提供しときながら、ごっそりボツになった逸話がある。それが趣味の模型…プラモの話である。物心ついたときから父がプラモを作っており、その影響からか小学生からタミヤの1/35スケールのMM(ミリタリー・ミニチュア)シリーズに親しみ、進学のため上京してからは寮生活のため1/35スケールはあきらめ、同じくタミヤの1/48スケールの飛行機モデルに変え、確か最初に買ったのが「ダムバスター」やったが、ずうと本棚の上に置きっぱなしなってたなんて話なんやが、それらの多くの写真とともに掲載には及ばんかった。他には1面に靖国神社への落書き犯の日本在住の中国人が逮捕されたという一報が。しかし実行犯でインターネットにツラさらした薫光明容疑者らは犯行の直後、上海に出国、中国では反日の英雄として崇められている。それに対し当時の上川外相は中国に懸念を表明やと?
産経新聞 7月9日号
今回の「話の肖像画」9回目になってやって、やっと大学進学までこぎつけた。わしの現在の年齢63歳で、この連載が計30回やから、18歳まで三分の一は、やはりそんだけ20歳までの経験が残りの人生に与える影響力が強いっちゅうことかいな…あれから40年以上か…どうやったらカメラマン、しかも報道カメラマンになれるか自分自身も両親も学校の先生も誰も教えてくれなかった…というても、親は親なりに、父親は反対一辺倒やからどうしようもないが、母親は新聞社の安定した?カメラマンを希望してか、新聞記者への道…的なハウツー本を誰に聞いたのか、そないな本を買ってきてくれたり、白陵高校写真部顧問だった数学教師だった故・前川先生は姫路市内の職業カメラマンを紹介してくださり、実際、前川先生と日曜日話を聞きにそのかたにお会いしに行ったりしたが、いかんせんやはり姫路市内の話に落ち着き実際姫路、明石地方でフリーの報道カメラマン氏はやはりいなかったのであろう。しかし前川先生もなんで当時からあった神戸新聞あたりのカメラマン氏など、そんないなカメラマン氏を紹介してくださらなかたんやろうか…
産経新聞 7月8日号
今回の「話の肖像画」は高校時代、R.キャパの「ちょっとぴんぼけ」を読み、報道写真家にあこがれたものの、どうやったらカメラマンになれるのかすら分らず、志望大学も絞れず、ただやみくもに受験勉強のいかに点をとるかばかり教えられる日々を送っていた。スポーツに秀でてたわけでも音楽の才能が全くない事も自覚しており、ただ写真撮り、その後すぐ暗室に籠り、現像液の中で自分の作品…とも呼ぶ価値もない映像が浮かび上がる瞬間にのみ喜びを感じていた。この連載の中で母校のみならず、スパルタ教育の弊害を説いてきたこともあるが、一番の弊害は12歳から18歳までという人生の中で一番多感な時期に男だけの世界に身を置き続け、普通の中高生が経験できるあらゆる娯楽から遠ざけられたことで屈折した女性観が芽生えたことやないかと…
産経新聞 7月7日号
今回の「話の肖像画7回目で中学にはいってからのは話になった。ワシは今年で63歳、その約一割にもすぎぬ6年間をすごした母校での逸話は枚挙にいとまがないが、高校卒業して大学入学してから、ことあるごとに自分らの出身高校に話が及び自分らがすごした「青春時代」の話に及ぶと、皆信じてもらえんかった。当時の学園長が亡くなり、母校での教育方針ががらりと変わり、わしがいた当時のことがまるでなかったかのような「自由な校風」にかわり、あの6年間の出来事がすべてフィクションの世界に追いやられてまうとという危機感に襲われたわけでもないが、なんとかそんな壮絶な6年の青年期をおくった者たちがいたことを事実として残したかったというのが偽らざる心境である。ただそんなすさまじい教育を非難するつもりはわしには毛頭ない。
産経新聞 7月6日号
「話の肖像画」連載開始して6回目で中学受験までこぎつけた。写真は小6やろか、ブラスバンド?なんやろか、トランペットを吹いているとこやが、ワシは自分も自覚しとるが音楽の才能というか聴くほうも全く才能もセンスもない。カラオケある店にも自分の意志では行ったこともない。が小3ぐらいまでやろか、バイオリンを習いに明石のかなりのお年寄りのバイオリニストの先生のご自宅まで習いに行っていた記憶がある。会社帰りの父が運転する、おそらくカワサキのスクーターの荷台に乗せられて…ってカワサキはスクーター造ってなかったから他のメーカーやろか…とにかくスクーターの2人乗りで送ってもらっていた記憶がある。帰りはバスやったかいなあ…まあ野球と同じで音楽にも才能が全くないのが自覚できたのが、早くから写真にのめりこめた動機になったことだけは確かやろう。
産経新聞 7月5日号
「話の肖像画」第5回目の今回は初めて自分のカメラを手にした時の喜びを中心にまとめていただいた。今もそのカメラはワシの手元にある。アイレス社の35㈽C、ニッコールマウントでレンズ交換できるタイプでなく、40mmの固定レンズがついたままの35mmフルサイズ、小学生が当時も操るにはかなりむずかしい。ケータイでなんの苦も無く写真らしきもんが撮れる現在の小学生にとっては車の運転なみに複雑な操作と知識が必要である。父が亡くなって、父の父、つまり祖父が使っていたビューティーフレックスという6X6の2眼レフや父の生前ワシがプレゼントした1眼レフ、キャノンAE−1プラスプログラムもワシの手元に残った。ただ父に中3のとき買ってもらったワシにとって初めての1眼レフであったミノルタSRT101やタムロンの交換望遠レンズは学生時代に売り払ってしまっていたが、ミノルタの101は読者の方からプレゼントされ、再びワシの手元に戻ってきた。それにしてもアイレスにしてもミノルタにしても古い日本製カメラは修理にこそ2−3度だしたが、今も正常に作動する。
産経新聞 7月4日号
今回の「話の肖像画」はまだ小学校に上がるまえの幼少期、写真も亡き母に抱かれた3歳のころ、今回このお話が来て父が残していたアルバムを見直し、つくづく父の几帳面さに驚く。写真もむかしのプリントなので、じつにきれいなうえきっちり日付や場所が記入されている。父の晩年、遺影の撮影を頼まれたときも「縁起悪い」と固辞したら、父は小学生時代から父が務めていた川重の近くの写真館できっちり撮影からプリントまで済ませており、遺影の写真を捜そうとしていたら、万が一の際の連絡先書類等といっしょの束にそれを見つけ驚いたともに、それを遺影としたのは言うまでもなかった。他には前日の一面にもあった新紙幣が流通はじめてるという平和ネタが掲載されている。
小沢一郎 淋しき家族の肖像
元週刊文春記者でもある著者による文庫本の表紙に写真を使ってくださった。それくらい夫婦そろった写真がないのである。いまや離婚してしまったので、もはや撮りようもないが。まあ内容は強面の元自民党幹事長、現在は立憲民主党の先日の総選挙でも選挙区でも勝利した国会議員である小沢一郎氏の実像である。驚きの内容であるが、ワシがこの貴重な写真は狙って撮った…ともいえるが、この日実施された海上自衛隊幹部候補生学校の卒業式での一コマなのである。この卒業式に小沢一郎氏が出席されたのは、これまたこの日候補生学校を卒業し、3等海尉に任官されたご長男の晴れ姿を一目見んと忙しい中広島県江田島まで駆けつけてきたのである。夫人同伴で。夫人は息子の一段とたくましく成長した晴れ姿を一目見るだけでは飽き足らず、フィルムに残さんと、雨の中コンパクトカメラを握りしめ我が子を捜し、小沢氏は国会議員という立場も忘れ1人の父親としてそんな大はしゃぎの夫人をほほえましく見守るというどこの家族でもみられる普通の光景であった。いやあ父親はくるかもしれんやろけど夫人同伴とは予想もできず、いささか面喰いながら、敬礼を交わしながら通り過ぎる息子も入れた3ショットをなんとかフィルムに収めようとこっちも必死やったのである。このときまでは普通の幸せそうな家族に見えたんやが…
弾道ミサイルが日本を襲う
まさに北朝鮮からの弾道ミサイルが日本列島上空を飛び越していったその日である。今回はICBMしかもロフテッド軌道というらしく、今までで最長の1時間半以上飛んで北海道沖に落下した。本書はそんなミサイルとはそもそもなんぞや?というシロート衆への初歩的な問題から国際政治情勢までからめた専門的観点からもミサイルがらみの様々な問題を懇切丁寧に教えてくださっている。それにしても北朝鮮がICBM,つまり大陸間弾道ミサイル打ち上げよったとは…いや別に驚かへんで。北朝鮮はウクライナに万単位の兵力を派遣した見返りにロシアにでっかい恩売りよったのである。あの独裁者3代目にとっては自国の兵隊の命なんぞスプーン一杯の飯粒より軽いのである。それでロシアのミサイル技術や核兵器ノウハウが手に入る丸儲けや。これからも日本海は、いや列島飛び越えた太平洋も北のミサイルの実験場かつゴミ捨て場と化すはず、それに対し我らの新首相は遺憾としかよう言わんのである。
産経新聞 7月3日号
「話の肖像画」3回目にして幼少期に戻り、今回が実質初回になった感じである。写真は小学校4年まではいっていたソフトボールチームで校区で準優勝した時のと思われる。ユニフォームはかつてのこの辺り一帯の住所「鳥羽住宅」のため胸のチーム名は「Toba」となっている。現在は一律西明石北町と呼ばれているが、鳥羽住宅も正式名称は「川崎航空機鳥羽社宅」。それが短くなって「鳥羽住宅」となったのは川崎航空機、現川崎重工がこのあたりの社宅を社員に払下げたからである。14歳から川崎航空機の社員…というても小僧というかぱしりだった父にも格安で払い下げられた。当時は庭にいちじくの樹があり夏になったらたわわに実をつけたが、一向に好きになれなかった。最寄りの駅は西明石、歩いて子供の足で10分くらい、まあ大企業の社宅というても戦争を経験してるだけあってボロボロ、風呂は薪、便所はぼっとん。でワシが10歳の時、セキスイハウスで建て直した。しかしその西明石に山陽新幹線の駅ができたのである。今もある実家やが、東京からやと新幹線の駅から歩いて5分とむちゃくちゃ便が良く、父の一念発起の社宅購入は彼の人生で数少ないクリーンヒットとなった。父が亡くなった時は明石の家をいっそ売り払おうとしたが、買い手もつかず、老後に住みつこうとかんがえていたら、今になって明石中の不動産屋から売れの便りがありとあらゆる手段で届きだす始末である。どないしょう。
産経新聞 7月2日号
話の肖像画第2回は「不肖・宮嶋」の名付け親についてと初回と時が前後するが、故勝谷誠彦氏とエルサレムの嘆きの丘で撮った写真も掲載されている。実は今回の話があり、勝谷氏との写真を捜したんやが、結局、現場で撮った勝谷氏と2人の写真はこれっきりであった。まあそう考えたら、勝谷氏とは国内外の出張をなんどかともにしたが、危ないとこといえば、その時の湾岸戦争下の中東と身分を隠した北朝鮮くらいであった。中東では食にこだわった勝谷氏に引っ張り回されたが、記者、編集者としてはワシなんか比べもんにならんくらい強気な取材をされる。第1次湾岸戦争終結をヨルダンのアンマンで迎えたが、アラブ人の涙雨のごとく土砂降りの雨の中、殺気だった表情で終戦のニュースに耳を傾ける反米住民にびびってカメラを取り出せないワシのケツを叩いた。「ここまで来て、この瞬間撮らんかったら国帰れんぞ」と。そんな人が亡くなって早3年かいな…
産経新聞 7月1日号
この月の1日から人物への30回連続のインタビュー連載「話の肖像画」に登場させていただいた。30回も連続でワシの半生を語るというので、大手町の産経新聞本社まで5回ほど、通わせていただいた。聞き手は第38次南極観測隊のオブザーバーとしていっしょに南極大陸までごいっしょした産経新聞のカメラマンだった芹沢伸生氏が務められた。芹沢氏は現在、福島支局長で、郡山の爆発事故や常磐線全線再開等の取材ではお世話にもなったが、この連載の度に、わざわざ福島から大手町までおいでになられた。ただ一度だけ最終回にあるとおり、緊急入院したため、ドタキャン、延期してしまい、わざわざ福島からおいでになって手ぶらで福島にもどらざるをえず、という非礼を働いてしもうた。 その記念すべき第1回は正月の能登震災発生時のいきさつを中心にまとめられた。ほんにカメラマン生活40年たっても、やってることは40年前とおんなじ。まあ第1回目の話としては正月での悲劇ということもあり、そうなったのであろう。掲載当日には先輩カメラマンからさっそく電話があったが、「遺書のつもりか?」と。そんなことあらへんけど、たまたま体調崩していただけであった。
ストライク アンド タクティカル マガジン 11月号
今回も能登震災、発生が元日の真冬から真夏にと季節も変わり、作品の雰囲気もガラッと変わった。とはいうものの、被害の激しかった半島先端部の輪島市、珠洲市の沿岸部の震災発生直後と全く変わらぬ惨状はそのまんま、人の姿が見えぬゴースト・タウンのままである。自衛隊の災害派遣と数は決して多いとは言えぬボランティアの活動がもくもくと続けられているように見えるが、いや、公費による解体作業や震災瓦礫集積所なんかでも活動は続いてるで。それが全然目立たんのである。中央からの取材も月初めの節目程度、アリバイ工作のようにタレントキャスターがしらじらしいインタビューを交わす程度、-あれやったら糊の効いた、シミ一つない防災服で避難所で笑顔で赤ん坊を抱きかかえる政治家と変わりないやんけ。いやいやテレビ局のにならず、雑誌メディアも有事である災害派遣にはあまり興味がないようで、訓練には欠かさず取材に来るのに。まあそれやからワシみたいなのにお呼びがかかるんやけどな。
Avanti Camerati! 戦史・兵器・軍装を知るためのWWIIイタリア軍通信 Vol.1
これまたイタリア軍のことなら日本一詳しい著者から、今度は「世界一美しい」と言われるイタリア海軍の練習帆船「アメリゴ・ベスプッチ号」取材の際、いただいた貴重な一冊である。こちらでVol.1とあるから、まだまだ次号も続くと思われるが、よくぞまあ、ここまで資料や写真を集められたもんである。まあそれでもまあ、スタジオ・ジブリの宮崎駿監督も長編映画「紅の豚」で第2次大戦前のイタリア軍がわき役として登場しているから、需要は多い…というかワシが不勉強なだけであろう。イタリア製の製品というたら、ファッションに関わるもんが多いんやろけど、ワシはあんまし縁がない。ネクタイ…であったかな?20代の時にはフィアットの「スーパー・ミアフィオーレ」てなセダンを1年くらい乗ってたけど、まあトラブル続き、いまはマンフロットのライトスタンドにベネリーくらいか、まあファッションとは関係ないか…まあ大戦中のイタリア軍の知識は乏しいが、現代のイタリア軍なら先日航空自衛隊三沢基地に飛来したユーロ・ファイターやF-35を撮影したばかりやが、コソボではNATO軍の一員としてアクチュアルのイタリア軍とペチというコソボの古都でしばらく同行していた。
Will 月刊ウィル 12月号
三度Will誌上で紹介してくださった能登であるが、今度は震災でなく豪雨災害である。今回ほど虚しく、また絶望的な取材はなかった。ワシは国の内外で災害取材してきたが日本は復興のスピードが段違いで早い。いや早かった。阪神淡路大震災の2年後には週刊誌グラビア誌上で「祝・復興 神戸美女図鑑」なる企画をぶち上げたほど。長田の火災現場なんか1年後には、ここはどこやと迷うほど復興の槌音は高く、また早かった、のに、能登は9カ月たってもそのまんま。もちろん様々な悪条件が重なったといこともあるんやが…そこに豪雨が襲い掛かったのである。また狙いすましたように奥能登に。それはまさに「山津波」と呼ぶくらいすさまじい破壊力で、地元住民に言わせれば、海からの津波より質が悪い。津波は水が引けば、瓦礫は残るが、山津波は泥と瓦礫が残ってしまうのである。瓦礫もよく見たら山から転げ落ちてきた樹木が多く、その多くがそこまで転げ落ちる間に枝葉が削れツルツルとなり、まるで鋭利な刃物のごとく、家屋を串刺しにしていったのが見れた。それは人類の英知ごときではもはや手も足も出ない。が備える事ならできる。それを記録するためにもワシはまた能登に行く。
写真集「日本陸軍気球隊」
8月のイタリア海軍の空母「カヴール」取材時、著者をお見掛けし、直接お譲りいただいた。著者は発行元から察するまでもなく、大戦前後から現在までイタリア軍全般に関する幅広い知識をお持ちなのはこの業界ではよく知られているが、帝国陸軍の気球部隊についてもかような知識や写真をお持ちやったのには驚きである。それにしても知らんかった…フィクションの世界なら最近見たコミック「ゴールデン・カムイ」にも帝国陸軍第7師団の司令部のあった旭川駐屯地の気球隊がでてきたが、史実にもちゃんと気球隊があったんや。本書の裏表紙にも気球を模した襟章の実物の写真が並べて掲載されている。陸軍のきまぐれで創設されたいわば日陰の部隊かと思うていたら、とんでもない。攻撃こそ無理やったかもしれんが、気球は偵察には無茶苦茶目立つやろうが有効と考えてんやろう。そういえばワシがガキのころ明石でよく見た気球、アドバルーンも最近とんと見んようになった。
産経新聞 5月9日
今回の「直球&曲球」はバイデン米大統領の「日本の経済低迷は日本人が外国人嫌いで、移民を望んでない」の発言に苦情に噛みつかせてもろた。そんなことあらへんやろ。日本人ほど外国人に親切なとこないで。お隣りの国じゃ執拗かつ事実でもない反日教育のせいで、日本人は町中で日本語もしゃべれんどころか、日本人学校の生徒が通学中に刺殺されるという痛ましい事件まで起こっとるんやで。そんな国が少なくとも3つも隣国にあるんやで。そんな国に限って日本にこぞって観光に来てはやりたい放題やんけ。いやいや、日本に来る外国人の全員の全員が悪党のわけはそりゃあないわ。実際日本がワシが子供の時と比べても確実に治安は悪くなってる…けど、それは不良外国人のせいもそりゃあ、あるけど、「闇バイト」につられてお年寄りの家に強盗押し込んどるほとんどは日本人みたいやし、その指示役のホンマの悪党はフィリピンやカンボジアなんかの日本の捜査機関の手が届かん外国のリゾートにおるんは周知の事実や。
「台湾の自由風景」宋隆泉写真展日本語パンフレット
宋隆泉氏は台湾の民主化運動を記録し続けた写真家である。が、ワシは不勉強にも知らんかった。この度、日芸の先輩でもある、かの山本晧一先輩のご紹介で、東京虎ノ門の台湾文化センターで開催された同タイトルの写真展の開会式典にお招きいただいた。宋隆泉氏自らも出席された式典とその後の写真展は盛況だったが、なぜか民主化という言葉が大好きな自称市民団体や活動家やそれのケツ持ちのジャーナリストや写真家の方々は姿を見せられず、かわって門田隆将氏や産経新聞台北支局長だったジャーナリストの吉村剛史氏や駐日代表部の謝長廷氏らが出席されていた。で、肝心の宋氏の作品やが、時代柄モノクロネガのシリーズやが、報道写真にしては説明的な作品は少なく大胆なアングルでかつ衝撃的瞬間や芸術的な作品が多い。まあ中国大陸では発表どころか、逮捕されてまうやろ。それが自由に発表できるのが民主主義の国に生まれた幸運である。現に本パンフには当時の台湾総統、蔡英文氏がこのパンフに写真入りで談話を掲載されているくらいである。
産経新聞 7月18日号
今回の連載は静岡県下田沖から流され36時間漂流し、千葉県館山沖で奇跡的に救助された20代の中国人女性について述べさせてもろた。まだ7月やったから、海開き前、つまり遊泳禁止やったビーチに泳ぎ出し、本人や仲間が気づかんうちに沖にながされそのまま36時間飲まず食わずで漂流し続けたのである。それを館山沖で日本のタンカーに奇跡的に発見され、クルーの献身的救助活動で一命をとりとどめたのである。まあその中国人も助けられた時は何語か知らんが、礼ぐらいは述べたんやろうが、、現在に至るも氏名もコメントも発表されていない。そりゃあ日本人にしかも最終的には海上保安庁のヘリで病院に運ばれた事なんかが、中国共産党政府の耳に入ったらどえらいこっちゃ。もう大陸帰ったらいじめまくられるわ。かわって大陸の深せんじゃあ、日本人学校に通う日本人生徒が中国人に刺殺された。これまた犯人の名前も動機も詳細は今に至るも明らかにされん。
密林戦ノ参考 迫撃
光栄である。帝国陸軍の教本復刻版の前書きを仰せつかったのである。しかも裏表紙にまで引用していただいた。原題は写真にある通り旧字体のしかも当時の部外秘の貴重な貴重な資料である。まあ専門的解説は編者の佐山次郎氏にお任せするとして、それにしても驚きである。もう旧軍、特に帝国陸軍のしかも先の大戦末期の精神主義に凝り固まった官僚主義のイメージから程遠い、まさに理にかなった戦術書なのである。しかも階級に関係なく分りやすーく、イラストまで入れ、かといって方程式まで示し、密林戦の効率的戦いを教授しとるのである。もう飯の食い方まで懇切丁寧に。しかもしかも、本教本はなにも迫撃砲戦闘だけに限ったこだけやなく、密林での野営や生活、衛生にまで気を配っているのである。科学的根拠に基づいて。」これで先の大戦で初めて密林戦を経験したというからさらに驚きである。まあそれでも昭和16年暮れに南方に進出し始め。本書というかこの教本が出回ったのが昭和19年やから3年弱もかかったということになる。これが各南方派遣部隊に回ってきたころにはほとんどの島は米軍に制圧された後ということになる。戦争とはやはり虚しい。
正論 11月号
今回の連載もまたまたヨーロッパというか、NATOのミリタリーである。前回の百里の「ラファール」に続き、またまた我が国では目を疑う光景、海上自衛隊横須賀基地にイタリアの空母が入港したのである。 もちろん戦前から通じて初めてのことである。これはなにがなんでも撮りに行かねばなるまいと、カメラと望遠レンズ担いで勇んででかけましたで。横須賀へ。入港する横須賀基地への入場は自衛隊側が仕切っていたが、報道陣の入場時間が、入港時間と近いことから、基地内に入ってしまえば、式典は撮れるが様々なカットから被写体である空母のアプローチを撮れず、岸壁からのアングルに限られる。といわけで、入港近くの時間までの集合時間まで、観音崎沖を通過するとこを狙うことにし、今回初めて観音崎まで早朝やってきた。
鉄道王国 スイスの旅
同タイトルでオリンパス・ギャラリーで写真展を開催されていた著者から署名入りのご著書を購入させていただいた。このボリュームとクオリティでこの値段は出血大サービスである。著者は日芸写真学科の先輩、さらに同じ木村惠一ゼミナール出身であられ、著者と同じく初めての被写体が鉄道やったワシには、鉄一本でしのいでこられた著者はまさに憧れの的であった。実際残り少ないカメラマン人生振り返ってみると、ワシも著者のようにもっと美しいもんを被写体に選ぶべきやったと後悔しきりである。本書の写真も目を見張る絶景の数々プラス鉄たちにはありがたーいデータ付きである。ワシの鉄道がらみの仕事というたら、事故が一番多く、次はそれに乗る生ぐさーい政治家や独裁者ばっか、そりゃあ著者のようなスイス政府観光局の協力なんか絶対得られないネタばっか。ちなみに著者はスイスの鉄道が一番好きというだけに20回以上訪問されたとのこと、ワシなんか1回だけや。
私はなぜ中国を捨てたのか
著者とは講演会の際、同席させていただいたのを縁にご著書を、署名入りでいただいた。著者は2007年中華人民共和国から日本に帰化されたんやが、それまではかの大陸では北京大学を卒業し、大学講師を屁て。神戸大学大学院に留学、博士課程修了等まごうことなきエリート、そんな名声や祖国を捨てても構わんというくらい中国に住み暮らすのが怖いのがようく分った。それだけやない。建国以来半世紀以上ずうと反日教育を続けてきたら、もはや相互理解なんぞ不可能であること、日本で学び、真実を知った石平氏のようなエリ−トでさえ、大陸に帰ったら、怖くて真実を話せなくなるほど、もはや反日は14億大陸中国人のDNAに刷り込まれてしまっており、共産党政府は自身への批判をかわすためにその反日を巧みに利用してきたのである。それらが平和ボケした日本で暮らす評論家でなく、祖国を故郷を友人らまで捨てざるをえなかった石平氏の口から述べられただけに説得力があった。これを読んでまだ中国共産党政府と話し合いで平和を説けると思う人物がおるとしたらって、我が国の国会のなかにもぎょうさんおるやんけ…
北國新聞社
この度、新聞協会賞を受賞した、北陸の地方紙、北國新聞からお呼びがかかった。元日に起こった能登半島を地盤とする北國新聞は輪島市、珠洲市はじめ能登半島中に支局を張り巡らせているが、まさにその面目躍如というべき、能登半島震災での報道写真で、本年度の新聞協会賞を受賞された。その写真の解説と感想を求められたしだいである。ワシは実は能登半島とは北國新聞ほどではないが縁が深く、2009年の能登半島震災でも取材に訪れていたし、盟友、故勝谷誠彦氏の紹介で、のと里山空港開港時にその記念イベントも兼ねた「能登地酒列車」でまあ、のーんびり取材をつづけたこともあった。そんな大好きやった能登に今年元日から悲惨な現場と化した能登に駆けつけるはめになろうとは…。
週刊文春 10月17日号
ここで週刊文春を紹介することはなかったが、今回は取材でなく、不定期好評連載の「時はカネなり」に登場させていただいた。この連載にはそうそうたる方々が登場されており、「え1ワシでええの?」と思わず担当編集者に尋ねたくらいである。今回は「SINN」と「BALL」の2つの時計を紹介させていただいたが、ワシはまあ時計には興味はあるが、ROLEXやPATEKのような超高級時計には縁は全くないし、興味もあんましない。第一ワシらカメラマンの時計は1年もせんうちに傷だらけになるから、丈夫で正確なやつが一番なのである。それでも「SINN」と「BALL」以外にも期間は短いが腕にしていた時計がある。それはCASIOのデータバンクとSEIKOのWORLD TIME、もうほんの2〜3年にすぎんが愛用していた時があった。
「丸」海上自衛隊カレンダー 2025
老舗「丸」の発行するカレンダーに写真を使用していただいた。もちろん全部ではないが。出版不況が言われて久しいが、カレンダーだけはデジタルだけっちゅうわけにはいかんやろ。なんちゅうてもカレンダーは置物といっしょで家具の一部である。掲げる家庭のセンスも伺えるし。というわけで、7月、9月、12月の写真がそれぞれ、拙著「Glorious Fleet」写真集からであるが、同じカットを使用していただいた。編集段階ではマラッカ海峡で撮った潜水艦も使用予定やったんやが、艦名が公表されないうえ、保安上の理由で画像処理の必要もあり、めんどくさい…というわけでもないやろが、神戸港で花井健朗氏の撮影された「じんげい」の写真が掲載されている。2025年へび年が良き年となりますよう、このカレンダー買ってから年越そう。
「丸」10月号
少し季節はずれの感は否めないが10月号で能登半島の「春」を紹介させていただいた。時折しも天皇皇后両陛下による被災地2度目のご訪問と重なり、不肖・宮嶋カメラマン生活40年で初めて両陛下の行幸に立ち会えた。被災地の住民にとっては何よりの励ましになったはずであるが、それにしても能登の復興の足並みはそろわず、相変わらず遅い。雪も解け季節が春に変わり、桜が咲き乱れてもまだ被災地には瓦礫がうず高く積みあがり、復興の槌音高く…には程遠かった。このさらに5か月後、この地が豪雨災害に襲われようとは、神も仏もないものかと住民の絶望感は察するに余りある。やはり電気水道ガスに通信、インフラの復旧とともに、公費による倒壊した家屋の瓦礫の撤去は急務であろう。日本ではその過程が諸外国の被災地と比べ格段に速かったはずが、能登ではさっぱり進まず、この時は4度目になる能登でわしもいらいらが募るばかりであった。いまだ仮設住宅にも移れず、避難所となっていた輪島中学校ではお隣の航空自衛隊輪島分屯基地隊員による給食支援が続いており、この日も旨そうな麻婆豆腐丼を調理中であった。さらに奥能登各地では自衛隊による、給食、給水支援はつづいており、「丸」的にはそんな自衛隊によるまだまだ続く災害派遣活動が中心となった。能登震災による自衛隊の災害派遣はこの後8月31日まで続き、この8カ月は自衛隊の災害派遣としては過去最長の8カ月にも及んだが、その一月ちょいで、こんどは豪雨災害で再び自衛隊がここ能登に派遣されることになろうとは…言葉が出ん。
文藝春秋と政権構想
著者とは週刊文春グラビア班編集者時代から長く仕えさせていただき、文藝春秋時代最後の仕事として、ワシの写真集「鳩と桜 防衛大学校の日々」の発行者としてともに防衛大学にも何度か足を運んでいただいた。しっかし、巻頭からいきなし、政財界ではめちゃくちゃうるさい堀田先輩カメラマンの名が飛び出すわ、その堀田カメラマンからあごで使われるシーンは驚いた。思えば著者はワシより一つ年上やったのに、その仕事ぶりは本書からもわかるようにめちゃくちゃ高度なことやりつづけられとったのである。本書が古巣の文藝春秋からでなく、講談社から出版されたのも手前味噌にならんよう配慮されたのであろう。それにしても、週刊文春グラビアデスク時代から検察情報から政界情報まで著者の指示で様々な仕事をこなさせいただいたが、ふだんからこないな苦労しはってたとは知るよしもなかった。そういえば、著者のネタで赤坂にあり、火災で焼失したホテル・ニュージャパンの社長が入院していた神奈川県内の大学病院まで押しかけたのを思い出される。社長のトレード・マークの蝶ネクタイ姿で重症のはずの社長が院内すたすた歩いていたのを見つけたときは目を疑ったが、今やったら病院内ということで強引すぎると非難あびたかもしれん。
月刊「正論」10月号
今回の連載はフランスの宇宙航空軍の「ラファール」戦闘機。実はラファール戦闘機の「正論」登場は初めてでなく、インド洋での日仏米豪海軍による共同訓練での参加艦艇での一つ、仏海軍の原子力空母「シャルル・ド・ゴール」艦上で海軍型ではあるが「ラファールM」の発着艦は間近で取材したことならある。が、空軍型の「ラファール」をじっくり。しかも日本で見るような日が来るとは夢にも思えんかった。まあじっくりというても、さらーとしか見れんかったのはいつもの通りであったが。フランスは現在、航空宇宙軍と名乗り、宇宙空間にまでその活動域を広げており、世界の空軍はこれからはそれを倣いつぎつぎに宇宙軍をあらたに創設する傾向にあり、われらが航空自衛隊にも「宇宙作戦団」が改編された。それにしても掲載された自分の写真を見て情けなくなる。なんの工夫もない。下から上空をパスする「ラファール」の2機編隊を撮ったという今のカメラ技術では小学生でも撮れる。やはり、わしらプロは下界に降りてくる直前や降りてきてから人なんかにからめて絵作りして考えさせられたり、くすっと笑いがこみ上げてくるようなカットを狙い頭を使う。まあ飛んでる姿が本来の航空機の姿と言われればその通りで、徳永克彦氏のような神業があればそんなカットも狙うんやが、残念ながらとてもそんな領域には及びもつかず、したからのケツを見上げるカットとなった。
月刊「正論」9月号
今回の連載はトルコ海軍の軍艦の東京入港についての取材であった。実は今年夏から秋にかけてはNATO(北大西洋条約機構)諸国はじめ外国艦艇の東京、横須賀入港が続いており、できればそれ以外の地でのイベントがあればそちらで取材したかった。もっともトルコもいまやNATOの一員、この連載の現場の東京港前には和歌山県の串本に、このあとは広島の呉にも予定だったため、どちらかというと慰霊祭等が行われる和歌山での地上イベントも含め取材希望出したんやが、なんと和歌山での地上取材はトルコ大使館の仕切りで、地元メディアと記者クラブ所属の新聞社、テレビ局のみ取材が許可された。なんで地方都市の串本でのイベント…というたら、串本には失礼極まりないとおもうが、とにっかくトルコ大使館の決定というので、ワシの写真取材は許可されんかったので、和歌山行きはあきらめた。まあ相手が相手なら強引なやりかたもありなんやろうが、慰霊祭、しかも日本トルコの友好のきっかけとなった「エルトゥールル号事件」の慰霊祭やし。実際慰霊祭には和歌山県知事から在日トルコ大使、宮様まで出席された。ただ東京国際クルーズターミナルでの一般公開も大盛況であった。わしらの目を引いたのは警備に立っていた当直士官が首からトルコでライセンス生産されたMP-5を胸に抱えていたことや、艦体四隅に「ヒトラーのひき肉機」とも呼ばれていたMG機関銃の現代版がしっかり設置されていたことであろう。
産経新聞 9月26日号
ほんまなんで日本人はもっと怒らんのやろ。中国大陸深せんの日本人学校生徒刺殺事件のことや。いまだ犯人の背後関係等、中国政府からは詳細な説明なしや、あの国はご存じの通り、監視カメラだらけ、ちょっとでも反体制の言動があれば直ちに「消される」土地柄や。そんなとこで、しかも前科がある「危ない男」が当局から野放しになってる訳ないやん。しかもあの事件後の中国政府の中国国民に対する警告がまた笑わしよるやん。「これから日本に観光に行く中国人は日本人から危害を加えられんよう要注意」やて。なんで日本政府はもっと怒らんの?なんであれほどの反日教育にもかかわらず、日本に観光に行こうとする多くの中国にも寛大どころか、靖国神社に落書きする中国人にはその動機を理解するといいながら、今回の殺人事件の犯人には「反日教育のせいやない」なんてしらじらしいことコクんやろ。
ストライク アンド タクティカル マガジン 9月号
今回の連載は正論に続き、今年の「富士総合火力演習」りゃくして総火演の珍しい夜間射撃の部である。まさにカメラマンの腕の見せ所、これがまともに撮れるかどうかでプロアマで分れるというてもええやろ。今年は特に珍しく、富士山がくっきり見えたことから、いやがおうにも気合が入る。そや、富士山といっしょの総火演を撮ろうと。しかし富士は…というより演習場は真っ暗である。せやから夜間射撃の舞台になるからである。 撮影データは前回のがあるからええが、問題はピントである。もう一回合わせたらそれで固定である。あとはかたっぱしからシャッター切るだけである。で、出来上がったのが掲載ページである。どやろ?
Will 11月号別冊「歴史道」
久しぶりに「歴史道」に寄稿させていただいた。しかも「司馬遼太郎と戦える日本」のコーナーの最初で登場させていただき恐縮である。テーマは「硫黄島によせて」サブタイトルに「栗林中将夫人のスピーチに涙」とあるとおり、過去5度、こんな稼業やっているから、なんとか上陸できた硫黄島とその戦いについて、感想を述べさせていただいた。当時は目を疑ったんやが、2度目の1995年4月に行われた日米合同の硫黄島戦50周年慰霊祭では日本側指揮官、栗林忠道中将夫人である栗林義井氏が出席されていた。しかし現在これを記録報道しとったメデァがほとんどないっちゅうもんも驚きであった。写真も昨年の写真展「東京都硫黄島 北海道国後島」で展示された作品の中から使用したが、本来カラーページのため、カラーで用意したかったんやが、締め切りの関係で白黒のみとなった。
産経新聞 8月22日号
今回の連載「直球&曲球」は自民党総裁選とパリ五輪の共通性について述べさせてもろた。自民党総裁選のたんびに思う。なんで民主国家をうたう日本で最高指揮官を直接選挙で選ぶ権利が自民党員と国会のセンセイ方にしかないんかと。まあ直接選挙にしたら、したらで、いろいろあるわ。なんせガーシーがれっきとした国政選挙で当選してまうお国柄や、「一回も登院しない」と公約しときながらや。そんな国民性やったら、松本人志氏や、大谷翔平氏なんか首相に立候補したら、当選してまうかもしれん。いやいやお二人に首相の資質がないというとるんちゃうで。あえて名を出さんが与野党問わず、芸人、スポーツ選手が首相やったほうがよっぽどましやったみたいなやつが内閣総理大臣を名乗っていた時もあったやんか。それにしても石破首相になるとはのう…いやワシが選んだわけやないと逃げるつもりはない。自民党総裁イコール首相となると知っていて自民党が政権最大与党に選んだんはわしら国民自身なんやから。
Alumni Association Report「日本大学藝術学部校友会報」112(2024年春季)号
母校校友会が発行する会報に「客員教授」の「特別講義」を紹介していただき恐縮至極である。2年前に始まったアメフト部や前理事長らをめぐるスキャンダルのせいで、ずうと肩身がせまい思いをしてきたが、藝術学部に限っては入学希望者は定員割れどころか、横ばいですんだとききおよんび、ほっとした。いやいや横ばいで喜んどったらあかんわ。これからますます少子化が進む。そないなったら、また問題噴出して、国からの補助金は打ち切られ、授業料は高騰、結果入学希望者が激減、定員割れ割れに陥るなんてとこは見たないわ。
ストライク アンド タクティクル マガジン 7月号
今回の「不肖・宮嶋 写真館」の連載は三度、能登震災その後である。まさに口を酸っぱくして、能登の復興の遅々として進まぬ現状を訴えつづけたが、再び今回の被災地を狙いすましたかのように輪島市と珠洲市を豪雨災害を襲った。中3の女子学生を含む行方不明者が一刻も早く見つかるよう祈るしかない。こんな災害のたびに思う、自然はか弱い者やろうが善良なる者でもお構いなし、9カ月前に災難をふりおろした同じ地域やろうが、同じ家族にでも襲い掛かる。無慈悲で残酷きわまりない。しかし、すべて自然のせいにしとったら世話ない。能登の復旧、復興がもうすこしスピード・アップしてたら、現場からの瓦礫の撤去がもう少し進んでいたら、あそこまで被害は拡大してなかったんちゃうやろか、と勘ぐりたくなる。しかし所詮21世紀になっても人智なんぞ大自然の猛威を防ぐことはできん、が、備えて、被害を少なくすることならできるはずや。まあそれも指導者次第やが。
正論 7月号
今回の連載は3度目になる能登震災取材。輪島市の袖ヶ浜海岸である。震災前の袖ヶ浜は海水浴場でもあり、看板の写真にはビーチまで波が打ちあがっているが、この時は海底が隆起して白い岩面があらわになっていた。上から見ると海水浴場のビーチも海底は黒く見えるが海面上で干上がるとなぜか白く見える。ロングで引いたこの写真では分らんが、実は足下の岩間には突如地上になって動けなくなったサザエやアワビがゴロゴロ転がっていた。もちろん持ち帰ったりせんかったが、震災発生直後は沿岸部の孤立集落では上下水道、電気は途絶えたが炭火はおこせれば、そんな貝類が手づかみで獲れたので、それらをバーベキューにして飢えをしのいでいたところもあった。しかし4度目7月に訪れたときには、波が明らかに岸に近づいているように見え、急な隆起のリバウンドなんやろか、海底が沈下してるように見えた。しかし、隆起にしろ、沈下にしろ、自然のエネルギーとはすさまじいもんである。
産経新聞 6月13日号
今回の連載「直球&曲球」は北朝鮮の「ゴミ風船」爆弾について、言わせてもろた。そりゃあ日本軍も前の大戦では風船爆弾をやったわ。まあ陸続きの37度線をまたいでと違い太平洋越しや。そのほとんどは途中の太平洋の藻屑と化したんやろうが、それがごみ、しかも吸い殻やの汚物せっせと集めて詰め込んで、汚物っちゅうても人糞は肥料になるからもったいないと動物のクソやてってやらされとるヤツも情けないやろう。
正論 8月号
今回の連載はカラーでお見せいただけないのが残念やが、毎年恒例の「富士総合火力演習」略して「総火演」の「夜間射撃の部」。日頃の行いがよほど良かったのか午前中の部では薄曇りで、富士山が厚い雲に隠れていたのが、午後7時、日が落ち始めるとくっきり、その美しい稜線を現したのである。 そこに大小の火砲に照明弾が飛び交い、下手な花火大会より、明るく鮮やかであった。もちろんこれらが実戦で使われる際は「きれい」やの言うてられし、実際2003年3月21日夜、空爆下のバクダッドでイラク軍の対空砲火と米軍のミサイルの爆発にさらされたさいは、恐怖で震えていた。なお夜間の部では赤外線等で目標を狙う射撃の邪魔になるので、ストロボ(スピード・ライト)なんか論外、デジカメのモニターさえ切るよう指示され、学生時代のように暗幕をかぶって撮影に挑んだ。また真っ暗なため、戦車等と標的の位置関係、射撃のタイミングに露出等を計るのが日中より、はるかに難しかった。
東京新聞 8月28号
初めてちゃうやろか?東京新聞にワシの写真が掲載されたのは。とは言うでも「文化人・芸能人の多才な美術展への紹介記事中でのことである。作品もオリジナルとおり、ちゃんと9点のマルチ画面でである。これは作品を制作していただいた、写真弘社が画像データを作品のまま渡していてくれたからであろう。これで少しでも入場者が増え、能登支援のチャリティーのお役にたてれば、写真家冥利に尽きるというもんであろう。しかし、東京新聞といえばあの女性記者もいるとこやろ。さすがに「不肖・宮嶋」の名では紹介してくださらず「宮嶋茂樹さん」として紹介くださった。まあそれでも充分ありがたい。
ウルトラ実話ナックルズ 32号
久しぶりに「ナックルズ」に紹介していただいた。インタビューは入院のため2度ほど延期してもらったが、NHKの「写真週刊誌の時代」をご覧になって、当時の現在ではありえない取材方法やエピソードを語らせてもろうた。確かにいまからでは信じられんやり方をワシらはしていたが、それは写真週刊誌だけやなかったのである。テレビも新聞もそりゃあ強引かつ、えぐい取材やってたのである。ただ写真週刊誌の売り上げがうなぎ上りだったこともあり、目だっていただけで、同じようにテレビのワイドショーのレポーターや新聞の社会部記者やカメラマンもやってることは写真週刊誌とかわらんかったのである。そして今や新聞、テレビまでもが、いや国会のセンセイまでもが週刊文春はじめ週刊誌のネタを後追いする始末である。
ストライク アンド タクティクル マガジン 5月号
今回のSATマガジンの連載も遅ればせながら能登震災である。これはミリタリー専門誌全般に言えるが、訓練や演習の取材には積極的に人を出すが、災害や実戦などの有事取材にはあまり積極的やないように思える。各国軍隊にとってその主任務はあくまで「国防」、その装備、練度等でその精強さを図ることができるが、災害派遣も国民の生命、安全、財産を守る大事な任務のはずである。特に災害派遣は訓練では予期しなかった様々なトラブルや不安要素が発生し、それらに対処できる能力もその部隊の精強さを図る基準になるハズなんやが…特に能登半島震災は元日に発生したということもあり、雑誌媒体の初期取材の動きは鈍かったように思える。他には14Pにわたって水陸機動団の特集を急遽組み、写真を提供させていただいた。
月刊 Will 7月号
今やカラーグラビアページをまとめて10Pも与えてくれる数少ない媒体となったWillであるが、今回は「元日から3カ月後の能登」、あの凍てつくような元日から3カ月、やっとこさ春が訪れようとしていた能登の特集を組んでいただいた。また3カ月たったと当時ですら、自衛隊は東日本大震災時に次ぐ長期災害派遣になりつつあり、半年過ぎた今は最長の災害派遣を更新中、いまも断水が続く珠洲市で給水、入浴支援が続いている。今回は正月後2度にわたり、3月と4月の能登を取材、のと里山鉄道の「桜駅」ともいわれる能登鹿島駅や天皇皇后両陛下による2度目の被災地訪問も取材でき、まさに遅れていた春を両陛下が運んで下さり、能登半島に桜が咲き乱れた感があった。
正論 6月号
今回の連載は震災発生から三カ月ぶりの、いや二か月と一週間ぶりの能登である。元旦に発生したから、それからは三カ月になるが。三カ月たってもまるで時計の針が止まったかのような光景が、このグラビアページだった。輪島の朝市通りさえも通りは瓦礫がかたずけられ、車が通れるようになったるけど、珠洲市の鵜飼地区はまあ軽自動車は通れそうやけど、ランクルクラスはとても無理なほど、液状化現象で足下が泥まみれのうえ、マンホールが1m以上飛び出たまんま、いったい、石川県は、国はなにやっとんや?と首かしげるほど復興のスピード感が感じられんのである。
南島記
著者は大学時代の同窓、あいかわらずしぶい作風である。ここ数年著者がライフワークとして通いつづける南西諸島の小島の地元のつつましい生活をするどく切り取られた。同じタイトルでニコンサロンで写真展も開催されていたが、そちらより作品数は多く掲載されている。今回の被写体となったのは世界遺産でもある西表島でなくそのお隣の鳩間島、というワシも一回も行ったことないちいちゃい島であるが、その民俗性はもはや日本というより南方の島みたいである。著者の作品の質については申し分はないんやが、著者の展示のお隣のもうひとつのギャラリーの展示はどうも…であった。「え?土門拳賞?」
正論 5月号
今回の連載はまたまた沖縄、しかもブルービーチ、しかも今回はフェンスの外…からも撮ったんやが、一旦は海兵隊の訓練場内部にも入れた。というのも毎年アメリカ西海岸でやっていたアイアン・フィスト(鉄拳)作戦を日本国内でやるようになったからである。メインは変わらず米海兵隊と日本はかつての西部方面普通科連隊、現在は水陸機動団、略して水機団である。かつての連隊規模が現在は団に3つの水陸機動連隊を備えるまで、強大になり、東の習志野の第1空挺団、西の佐世保の水機団と精鋭部隊の名を欲しいままにしている。それにしても今回はあれほど騒ぎ立てるなんでもハンタイ派の活動家の皆様の姿が見えんのはなんでやろ?いや天候の都合であいかわらず予定されていた水機団のAAV7(水陸両用車)による着上陸が中止されたんはしゃあないけど、なんで沖縄でやる訓練はこないに中止がつづくんやろ?これやったら種子島や徳之島などの鹿児島県下の南西諸島を舞台に大規模な演習やたらええやん。
産経新聞 4月4日号
今回の連載はモスクワ郊外でのコンサート会場テロ事件について述べさせてもろた。それにしてもロシアは、というよりあの大統領はえぐい。zのテロ事件はイスラム国がらみや。実行犯はタジキスタン出身のイスラム教徒で民間人射殺時は「異教徒を殺せ」と叫びながら女性子供にも向けてカラシニコフを乱射している。それを、まあとっ捕まったんが、ウクライナ方向のロシア西部やからというだけで、ウクライナが手引きしとったなんて、ほんまむちゃくちゃやで。そもそもウクライナのゼレンスキー大統領は自他共に認めるユダヤ系や。そんなユダヤ系の大統領にイスラム原理主義のイスラム国のテロリストが助け求めるわけないやんけ。それにしてもタジキスタンかあ…アフガン行く前後行ったが、あそこもえぐいとこやった…ちょうど鈴木宗男当時は自民党の代議士がタジキスタンにわしらと同じ時期にタジクに来ており、なんやアフガン行くんかいな、たいしたもんやと思うてたら、タジクからアフガンではなくモスクワに行かれた。同行記者団から多くの日本のメディアがアフガン行けずにタジクの首都ドシャンベでくすぶっていると聞き及んだんのか、焼酎の差し入れがあった。当時も今もイスラム教が主流やが、酒には寛容であったが、それにしてもなぜか北海道出身の鈴木氏が持参したのが、九州の焼酎、あれ、だれが飲んだんやろ?
播磨時報 2月21日号 第3208号
姫路を中心とした播州地方の地元紙「播磨時報」にワシごときの講演を取材していただいた。主催は播州地方の6つのロータリークラブの支部。会の親睦、情報交換を目的としたが、ワシの役割としては話は専門外、学術書や歴史を研究してるわけやないが、紛争地や被災地には下手な政治家や学者より多く、かつ長く取材してきた自負があり、そのため写真だけはたくさんある。しかも誰に見せても恥ずかしくない質でというわけで写真をごらんになりながら、この会合のテーマでもある「「紛争の現実に向き合い、ロータリーとして行動しよう」を考えていただいた。実はロータリークラブとは2022年3月、ロシア軍によるウクライナ侵攻直後、すでに首都キーウ市の北東西がロシア軍により包囲されている中、やっとこさ医療関係者とともにキーウに到着した直後、現地のロータリークラブに松葉づえや義足を届けたことがあった。
まもり
防衛大学の日々の写真展以来、懇意にさせていただいた、大阪防衛協会の会長さんからご依頼で能登半島震災のアクチュアルな災害派遣の作品を用意させていただき、大きく扱ってくださった。紙面には防衛相提供の写真も掲載されている。それにしても写真を見かえすたびに、あの極寒の半島での被災地を思い出す。 積雪でべちゃべちゃの中学校のグラウンドに着陸した航空自衛隊のCH-47「チヌーク」ヘリコプターに消防隊により点滴につながれた重症患者がつぎつぎ運びこまれる様に出くわしたと際はその悪天候が少しでも収まり、全員が助かりますよう天を仰いだ。残り少なくなったカメラマン人生であと何度こんな悲劇を記録せなあかんのか、しかし訓練ではよく見る急患移送だが、こういう悲観的に準備した装備や訓練がまた不幸にもアクチュアルで実際いきる日がまた必ずやってくる。しかも近い将来に。
ARMY 2024年3月号(第104号)
今年もやってきました、陸上自衛隊部内広報誌「ARMY」が発表する「Photoof the year」の季節が。審査を担当してすでに10年以上、毎年の力作揃いに驚いたり、びびったり、楽しみにしている。が、今年の「photo of the year」はあっさり決まった。あとで聞くと福田氏、菊地氏、小見氏、4人の審査員の全員一致だったさうである。一昨年の音楽隊が受賞した「photo of the year」のようにワシらプロから見ても一体どうやって撮ったんやろうみたいな凝った撮り方でなくもう極めて保守本流の撮影方法であった。撮影した第12旅団司令部広報陸曹の町田曹長とは受賞後、第12旅団長の前島陸将補とともにお目にかかることができ、写真談議に花を咲かせた。
The Railway World 櫻井 寛、絶景列車を撮る
著者は不肖・宮嶋の母校、しかも同じゼミ出身の先輩である。かくいうワシもカメラ持つきっかけは鉄道写真である。本書も著者の同タイトルの写真展での図録的な意味合いもあるが、やっぱ写真は生で大きく伸ばしたオリジナルが一番であるが、いかんせん写真展会場では展示作品の数は限られる。本書はその作品に大幅に作品を追加したばかりか、後半には「豪華列車 日本の鉄道風景」まで掲載されている。写真展会場には著者が本書の帯にもあるとおり、95か国にも及ぶ著者が訪れた国々すべての一か国1カットの作品のみが展示されていた。そりゃあそうや一か国1カットでも95カットである。いくら会場が品川のキャノンギャラリーというても95カットでもサイズにもよるが相当なスペースが必要やろう。プリントは会場の関係ですべてキャノンの大型プリンターで出力したもんやが、それをさらに3枚も4枚も貼り足した巨大カットもあり、そのド迫力にはど肝を抜かれた。写真展会場では鉄道写真の第一人者の著者自らに解説を賜り恐縮至極であった。ただそんな地球をまたにかけた著者でもまだ撮影されてない列車を不肖・宮嶋、撮影に成功したことがある。それは北朝鮮の2代目、3代目の特別列車である。やれ日本の植民地時代のやつをいまだに使ってるやの、ロシア製やの様々な噂があるが、そんな特別列車の外面だけやが撮ったことがあるのである。今度鉄道写真のコンテストがあったら出展したろかいな…それでもわしもカメラマン生活40年、「世の中の汚いもんを見すぎた。」C.イーストウッド主演「ダーティー・ハリー」のなかのセリフやが、ワシもどこで道を誤ったんやろうか?いくら作品の質がよくても、被写体が被写体じゃあなあ。もう一度生まれてもカメラマンにしかなれんが、今度はもっと美しいんもんを撮ろかいな…いや、近い将来報道の世界から足洗うたら、いくらでもそんな機会はあるかいなって、そんな老後を一番嫌がってた自分やし、カメラを軽いミラーレスに替えてもうちょい悪あがき続けたるわ。
産経新聞 2月29日号
なんと4年に一度しか訪れない2月29日に掲載されたワシの連載がその1週間前の23日、天皇誕生日を迎えての日本の皇室に対する憂慮を畏れ多いと百も承知でのべさせてもろた。テレビ、新聞はもちろん日本人誰もが知りながら、口をつぐむ不都合な真実、日本の食糧自給率の異常な低さとさらに低いエネルギー自給率にならび皇室存亡の危機がある。あれほど少子化には新に官庁まで作ったのに、日本の皇室の危機はもっと早くやってくるのにや。このままやと皇位継承3位の常陸宮様のご高齢を考えたら、皇位継承2位の秋篠宮悠仁様が皇位を継承される頃には日本の皇室は悠仁様ただお一人になってまう恐れがあるのである。今のご時勢側室はさすがに天皇陛下は受け入れられないとしたら、あとは2684年続いた男系天皇の歴史や伝統を捨て女系天皇を認めるか、終戦直後GHQ(連合国総司令部)の命令により廃された旧皇室メンバーの復活くらいしかない。どっちにしろ相当な議論を巻き起こすやろうが、こういうときにこそ「憲法を守れ」やとお題目を唱えている国会の野党のセンセイ方も口をつぐんで知らんぷりである。その1条には象徴天皇制が高らかに謳われているのにもかかわらずや。ほんまどないなるんんやろ…いますぐ議論始めなあかんときに国会のセンセイ方は政治資金規正法やの自己保身であっぷあっぷ、皇室や被災地に思いを馳せる余裕もなしや。
ストライク アンド タクティクカル マガジン 3月号
今回はまた南の島である。と言うてもまたまた沖縄でない。まあ沖縄のすぐ上、長寿の島として知られる鹿児島県徳之島である。あれほど沖縄県下の南の島には行ったのに、鹿児島県下の南西諸島にはワシは奄美大島、と種子島にしか行ったことがなかったし、世界遺産の屋久島には一回も行ったことない。それは沖縄の島々と違い日本航空系の路線ばっかでむちゃ高いうえ、便も少ない。船便もあるが、わしも1回、鹿児島港からフェリーで奄美渡ったことがあるが、まあ時間がかかるうえ、めんどくさい。が!ええとこやんけ!なんでこないに沖縄と違いストレスフリーの島々に行かずして沖縄ばっか行くんやろ?日本人は。本連載にある通り、もっと鹿児島の島々に行くべきやろう…と思うても直行便がほとんどない。沖縄では考えられんが、エメラルド・グリーンの海を臨むその名も「恋慕岬」に通じる公道にさりげーなく10式戦車が迷彩網かけられ潜んでいるのでわる。私有地であるサトウキビ畑に第1空挺団がばりばり降下してきても、島民は誰も「ハンターイ」などと騒がんのである。まさに私有地まで含めた島全体を演習場にした極めて実戦的な陸海空自衛隊の統合演習、JXが実施できた意義は大きい。
J WINGS 2024年4月号(No.308)
今回は訓練でも演習でもない。アクチュアル(有事)な任務である。今回の能登半島震災では根元の細い能登半島の先端部に震源や被災地が集中、またその半島が急斜面の山地が沿岸部まで迫り平地が少ないという地理的条件が重なり、被災地に通じる陸路が地震による土砂崩れや地割れなんかでことごとく寸断、震災発生直後からしばらくは被災地である半島先端部に通じる陸路がわずか一本だけであったのである。当然その一本の陸路も無傷なわけない。ところどころ脇道のほっそい畦道に迂回したり、山道に逃げたり、片側交互通行やったりと、そんなんが金沢から100キロや。
産経新聞 1月25日号
今年はとんでもない年になりそうや…日本人だれもが耳を疑った元日の地震、津波警報。それは13年前の東日本大震災を思い起こさせた。しかし悪いことは重なるもんや。なんで日本人だけがこんな目に、しかも能登の民にこないな災難をもたらすんやって、なんと翌日には羽田空港ではその能登に向かう海上保安庁機とJAL機が衝突、火だるまになった2機の映像を能登で見てますます暗くなったが、その時はは能登でできることを今やるだけや、カメラマンとして、となんとか我が身を震いたたせた。そして、本号発売日の前日である。
産経新聞 12月21日号
昨年最後の連載やが能登半島地震が起こるなんて想像もしてなかった、実におめでたいシロモノになってたが、政府の危機感の無さの警鐘だけは当たっていたことになる。あれから半年たったが、いまだ政治資金規正法ではごたごたや。そりゃあ無理やで。法律作るんは政治家や。そんな自分らの首絞めるような法案おんどれらから作るわけないやん。国民の首は締め付けてもや。半年たっても政権支持率下がる一方でもないか…下げ止まりって喜んでる場合とちゃうで。ワシは再び「悪夢の民主党政権」下の日本に住みたあないわ。なんとか希望が持てる国にしてもらいたいもんやが、そもそもあと何回新年迎えられるかもわからんし…
世界の戦車 JグランドEX
日本人誰もが耳を疑った今年の元日の地震そして津波警報。わしも四国は道後温泉で一風呂直前にその一報に触れ、即能登にむかうことになったんやが、その際の恐怖と不安は今も忘れられん…というても倒壊家屋に閉じ込められ、暗黒と極寒の下いつ来るかも知れぬ救助を待っていた能登の民の苦難と恐怖に比べたらかわいいもんである。 しかし、こんな大災害発生にもかかわらず、我々報道する側の初動は迅速とは言い難かったんちゃうやろか。新聞、テレビは別として紙の媒体もますます減少傾向、わしらフリーの発表できる場も少なくなる一方である。そんな雑誌不遇の年明けに今回の能登半島震災は発生した。
J Ships(ジェイ シップス) 2024 VOL.115 4月号
今回のJシップスの特集は、こんな能登半島震災を予期していたわけでもないやろが、海上自衛隊の実任務である。実任務すなわち訓練でも演習でもない有事をさすが、戦後79年日本が戦禍に巻き込まれていないので有事といえば、災害派遣や国際緊急援助隊になる。思い返せば1991年、自衛隊初の実任務海外派遣となった「ペルシャ湾での機雷掃海任務」以来、ワシはほとんどの自衛隊の海外派遣に同行したことになる。PKO(国連平和維持活動)にいたっては1992年のカンボジアへの施設部隊派遣以来皆勤賞や。
丸 5月号
今回は先月号に続き、能登半島震災における自衛隊の災害派遣についての報告である。主に航空部隊の活躍について言わせてもろた。しかし前回に続いてやが、自衛隊の活躍してる現場は被災地の方々が大変な目にあっているときである。自衛隊員と違い被災地では人命救助、復旧復興に屁のつっぱりにもならんカメラマンとしてはそんな彼ら彼女らの活動を正確に報道し国民の自衛隊に対する関心を持っていただく一助になれば上出来というレベルである。今回も後半白黒活版ページではライターの渡邉陽子氏による陸上自衛隊第7後方支援連隊による能登半島震災派遣活動を細かい数字を上げレポートされていた。今回の能登半島震災では…だけではないんやが、災害派遣先での住民生活支援では給水給食入浴支援とも各方面隊の後方支援連隊が基幹となっていた。他には菊地雅之氏の遠洋航海同乗記が掲載されている。
丸 4月号
老舗専門誌「丸」にも今回の能登半島震災への自衛隊による人命救助、災害復旧復興支援活動を紹介された。しかしさすが老舗専門誌、表紙はカラーだが実は戦艦「山城」オリジナルの白黒写真に昨今の最新式デジタル技術で着色したにちがいない。なお後半には土居克臣氏による能登震災レポートも掲載されているがそちらは自衛隊からの提供写真を使用されている。老舗から巻頭のカラーグラヴィアを2Pもいただき恐縮の限りであったが、それほど能登半島震災発生直後は輪島や珠洲などの奥能登まで駆けつけたカメラマンは少なかった。陸路からのアクセスが心細いので、空と海からの支援が急務だった震災発生初期のころこそ、陸海空自衛隊のヘリ部隊と海上自衛隊の輸送部隊の出番であったが、山間部のグラウンドや海岸線のネコの額のような平地に、孤立集落からの避難民や被災地への大量の支援物資空輸とバンバン行きかうというまさに有事の緊張感があふれる現場に現れたカメラマンの姿は少なく、輸送艦「おおすみ」からLCAC(エアークッション艇)による孤立集落への重機、支援物資揚陸というまさに海上自衛隊にしかできんオペレーションにも、現場に乗艦してではなく、陸路で単身、孤立集落の揚陸地点に行かなければならないという状況下のため、ビーチに現れたのはワシ一人やったのである。
本当のウクライナ 訪問35回以上、指導者たちと直接会ってわかったこと
在版テレビ局に招かれた際著者ご本人からご署名入りの著書をいただきました。なんちゅうても日本ではウクライナ研究の第一人者、拙著のウクライナ戦記と違い、論文や歴史を読み解き書かれた、こむずかしいご本かと思いきや、なんと35回もウクライナに訪問され、ウクライナを良く知らん読者にもわかりやすーく書かれているので、安心されたい。それでも著者の大家ぶりが分るエピソードには枚挙にいとまがないが、なんちゅうても岸田首相と並び、ロシア政府が発表したロシア入国禁止リストに載せられたくらいである。ワシのウクライナ本なんかガン無視、まあ自分の小物ぶりを実感させてもろた。著書の巻頭には著者がわしも訪れた北方領土にも出かけられ、それが触れられている。しかし、ワシが訪れた北方領土は国後島やが著者が訪れたのは北方領土最大の択捉島であるが。さらにさらに著者はワシの連載させてもろてる正論にも寄稿されているくらい、くどいようやが、ウクライナ研究の第一人者である。わしはウクライナにはソ連時代に1回、2014年のロシアによるクリミア併合のち内戦時に1回、さらにロシア軍によるウクライナ侵攻後は4度、結構行ったと思うてたら、著者はタイトル通り、35回や。文字通り桁が違う。さらにワシはロシア軍の侵攻後4回もウクライナ行きながら、ゼレンスキー大統領には1回もお目にかかったことないが、著者はロシア軍の侵攻前からすでに対面され話も交わされている。いやあわしももう一回行ったら今度こそお目にかかりたいもんや。ちなみであるが、わしは先代のポロシェンコ大統領やプーチン露大統領には目にしたことがある。ロシア大統領を今度撮れる機会は…もはやないかのう…
月刊Will 4月号
今月は先月に続いてでもないんやが、フリー・アナウンサーの桜林美佐さんとの「能登半島震災への自衛隊災害派遣」について、あつかましくも対談させていただいた。桜林さんは不肖・宮嶋の大学の後輩にもあたるが、安全保障に関する執筆、ご著書も多い。さっそく余談で申し訳ないはそのかわいい後輩から最近個人的にお祝い事があったと対談後告白された。めでたいことであり、先輩としても喜びに耐えん。さて対談やが、ワシの写真も多く使っていただいた。実はこの対談後二度能登を訪れたが、全く復興が進んでおらん状況にびっくりしたんやが、まだこの対談時は自衛隊、消防、警察による行方不明者捜索、孤立集落からの避難支援は続いていた。さらにやが、珠洲市の給食支援は3月末で終了したが、いまだ奥能登での自衛隊による給水、給食、入浴支援は続いている。政府が目標としていた4月末までには半島全域での断水解消は結局空手形となり、5月に入っても珠洲市や輪島市の沿岸部では断水が続き、いまだ2000人以上の住民が不便な避難所生活を続けているのである。さらに今回の能登半島への自衛隊の災害派遣での能力、技術に国民の関心が集まったが、やはり無知な政治家が足を引っ張るのも毎度のこと、東日本大震災や、熊本地震の際のようになぜ数万単位で部隊を派遣せんのやと。これは行ったもんしか分らんかったが、奥能登は海岸線近くまで急斜面の山地が迫り平地が少ないのである。しかもあっても地震により狭い道路がことごとく崩落、土砂崩れ、地すべり、地割れで使いもんにならんかったのである。しかし国民の自衛隊に対する関心や理解がまた深まったんはええとしてもやが、そもそも自衛隊の本分は災害派遣やないのである。国防なのである。そのための訓練や装備が災害派遣にも活きただけなのである。今回の対談でも桜林さんとともにそれは強調されていた。
正論 4月号
今回の連載は先月号に続き能登半島地震への災害派遣のカットになった。他には時節柄旭川に建国記念日の祝賀行事に出席させていただいたおり、陸上自衛隊の第2通信大隊の方々のお世話で初めてじっくり拝見させていただいた「旭川冬まつり」の作品も候補に上がっていたんやが、いまだ2万戸以上が断水中の被害の爪痕生々しい能登駅前のカットになった。今回の震災被害の象徴的な倒壊建築物でもある7階建てのビルのある地域もそうなんやが、この輪島駅前も震災翌々日には電気が一部通じ信号も倒壊寸前ながら点灯しており、緊急走行する車両以外は皆、信号を守っていた。しかしこの交差点というか地名の「輪島駅前」やが、じつはこの七尾線「輪島駅は2019年廃線になり、駅も必然廃駅になったが、この駅前という地名だけが残った。先月被災地を三度訪れた際はこの駅前信号はしっかりまっすぐ直されていた。かつてののと鉄道七尾線は現在穴水駅まで通じており、これまた先月全線開通し「能登桜駅」の別名を持つ「能登鹿島駅」は満開のソメイヨシノに囲まれ、半島いや石川県内外から駆けつけた鉄動ファンや観光客で大盛況であった。ワシは鉄道写真出身やから鉄道の取材となると自然と気合が入る。北朝鮮の二代目、三代目独裁者の特別列車やウクライナから脱出する避難民まで等である。しかし昨今のいわゆる「撮り鉄」には恐れ入る。ワシらより最新の機材持っとるやないか。わしより強引というか押しが強いで。ワシなんか夜桜とのと鉄道からみ撮るためにホームの橋でスタンバイしとったら「邪魔や。こっちはずっと前からスタンバイしとんじゃ」と説教垂れられた。もちろん「素直に従った」で。せやけど線路に入りこんだやつに言われたあないで、と言い返せるわけもない。こわいでえ、つるんだマニアは。
正論 3月号
今回の「不肖・宮嶋の現場」はもう能登半島しかない。震災発生翌日から19日間ずうと能登で取材をつづけてきた。締め切りの都合もあって被災現場から離れた金沢市の西部緑地公園で撮影したカットが掲載された。現場はひっきりなしに陸海空自衛隊の大小様々なヘリが被災住民や人命救助に復旧復興支援人員に機材が降ろされていた。絵てきには大型の陸上、航空自衛隊のCH-47ヘリでの住民避難のシーンがたくさんの表情が現れていたが、セレクトされたカットは航空自衛隊のUH-60ヘリでの住民避難シーンであった。このUH-60ヘリ通称「ブラックホーク」(海上自衛隊はSH-60)は陸海空自衛隊、米軍も使用するまさに万能の多目的ヘリだが、昨年陸上自衛隊第8師団長の搭乗機が墜落し坂本雄一陸将以下10名の自衛官が殉職されたため、陸上自衛隊のUH-60ヘリは今回の能登震災でも目にすることはなかった。それやったら、これも昨年鹿児島県屋久島で墜落した米空軍のCV-22「オスプレイ」も空軍はおろか海兵隊のMV-22も陸上自衛隊のV-22も「オスプレイ」と名のつく機種は一律全機飛行中止にしたんはいかがなもんや?だってそやろ。飛行中止にするんやったら、米空軍のCV-22だけでええやん。ブラック・ホークは航空自衛隊、米軍とも飛行中止にならずとも、どこも騒がんかったやん。
J GROUND(Jグランド)EX
ひっさしぶりにJグランドに写真が掲載された。ところで「J GROUND」は日本語ではJグラウンドではなく「J グランド」である。掲載ページは巻頭に近いカラーグラビア、テーマは取材時は意識しなかった「87式自走高射機関砲」であった。撮影は恵庭から苫小牧港、そこから海路、防衛相が年間チャーターしている「なっちゃんワールド号」で釧路港へ。そこに上陸してから陸上自衛隊釧路駐屯地まで「北方機動演習」とさらにそれと連動した「北演」での矢臼別演習場での99式自走榴弾砲による実弾射撃であった。昨年は8月に我が国固有の北方領土のひとつ歯舞群島を形成する貝殻島ににロシア軍らしき集団が国旗を立てたり、灯台をいじくったりして以来、北海道と縁が深くなんども訪れることになった。
正論 2月号
今回の「不肖・宮嶋の現場」は長寿で有名な鹿児島県徳之島。ワシもこの機会に初めて訪れたが、まあ鹿児島の南西諸島はアクセスが悪いうえに高くつく。このあたりも直行便がある恵まれた沖縄の島々と違い不便である。一昨年の種子島もそうやし、沖永良部島も屋久島もそや。一番早くて便が多いのが、鹿児島空港からなんやが、それでも1日3便がせいぜい、それでしょっちゅう欠航するから混む。それにJAL系のJTA(日本トランス航空)しかない独占やから近距離にも関わらず島民以外は片道3万弱と高値である。まあこれは沖縄の本島、石垣、宮古等以外の島に渡る場合もそやが、それにしても高い。
ストライク アンド タクティカル マガジン 2024年1月号
今回の連載は昨年末開催された写真展「東京都硫黄島 北海道国後島」の告知ページとなった。会期をわずかに残してからの店頭発売だったため、動員にはあまり影響なかったと思われるが、まあ隔月出版なので、前号では早すぎこれまた効果薄かったであろうが。
産経新聞 11月16日号
今回の連載「直球&曲球」は今もパレスティナでつづくイスラエルとハマスの紛争についてである。ワシは実は中東取材は多かったがパレスチナとは縁が薄い。イスラエルには何度か訪れたがそっちの親しい情報交換できる相手もほとんどいない。パレスチナにも自衛隊がPKO(国連平和維持活動)部隊として派遣されていたゴラン高原ぐらいである。頻繁に足しげく通っていたのは。ウエスト・バンク(ヨルダン川西岸)の壁の中に入ったのも一度だけである。業界的には、頻繁に衝突が起こるガザやウエストバンクは報道写真での名作も多く、またすぐに現場に行けたことから、初心者用の戦場とも言われていた。しかしロシア軍によるウクライナ侵攻のような善悪がはっきりした紛争と違い、何千年にも渡って、宗教、民族、領土が複雑に絡み合った複雑な現場でもある。それに近代はナチスドイツによるユダヤ人迫害に日本赤軍やが連帯したパレスチナゲリラによるテロ事件もからみ、とてもアジアに平和に暮らす日本人には分りずらい戦争になっとるのである。
正論 2024年1月号
今回は三度北海道が舞台である。、陸上自衛隊と米海兵隊との共同訓練レゾリュート・ドラゴン23の取材のため道東矢臼別演習場にやってきた。目玉は米軍のHIMARS(高機動ロケット砲システム)と陸上自衛隊の多連装ロケットシステム自走発射機(MLRS)の実弾射撃である。どちらもアメリカが開発しまたその名の通り、多連装のロケット発射機でありながら自走できる。がMLRSのランチャーが12発装填でけるのに対しHIMARSは半分の6発である。あれほど大きくパワフルなもんを好むアメリカさんの海兵隊がなんでそんなHIMARSを選んだのかちゅうと、HIMARSはC-130輸送機に乗せ運べれるのである。世界中に機動展開能力を有す米海兵隊と国内で専守防衛を旨とする自衛隊との発想の違いであろう。まあ見かけはロシアや北朝鮮のカチューシャロケット砲に似とるが、中身のロケット弾の射程と精度が全然違う。このLMRSは湾岸戦争でも使用され文字通り砂漠に血の雨を降らせたが、HIMARSも現在も続くウクライナに侵攻したロシア軍に使われた。
今回の連載は陸上自衛隊木更津駐屯地での航空祭である。陸上自衛隊なのに航空自衛隊みたいな航空祭?と首を傾げられたような初な方もおられるやもしれんが、木更津駐屯地はなんとあの「オスプレイ」が配備されとるのである。一時的やが。正式配備先は長崎県佐世保市に居を構える日本版海兵隊ともいえる陸上自衛隊水陸機動団の足となるべく、木更津より近い佐賀空港になる予定である。しかし…この連載掲載後の昨年11月29日に鹿児島県屋久島沖で発生したアメリカ空軍のCV-22オスプレイ墜落事故の影響でしばらくフライト自粛する事態に陥ってもうたのである。けったいである。米空軍のCV-22は特殊作戦用にもでける特殊なオスプレイで海兵隊のMV-22や陸上自衛隊のV-22とは基本構造は同じやが、機種が違う。現に事故直後も米空軍のオスプレイは飛行中止してたが、海兵隊のMV-22は普通に飛んでおり、それがまた事故のあった鹿児島県や沖縄の自称市民団体の皆サマをいらだたせたが、しばらくしたら海兵隊のオスプレイも全機飛行やめてしもうた。あの事故さえなければ、今回の能登震災でもオスプレイは大活躍したやもしれん。いやそもそもこんなことで飛行中止にしてももうたら、何の根拠もなしに「オスプレイは危険」やとこいている沖縄の活動家やなんでもハンタイ派の自称市民団体の思うつぼやんけ。
今月「不肖・宮嶋の現場」連載では北海道しかも内陸部矢臼別演習場に行ってきました。毎年のように陸上自衛隊富士総合火力演習では155mm榴弾砲の実弾射撃を見てきたが、ここ矢臼別では総合火力演習が実施される東富士演習場より長距離射撃が可能なため火薬量(モジュール)を増やす射撃がしかもま近で取材できるというのでやってきたのである。実は本州では今年度で戦車の実働部隊は無くなるが、北海道は90式、10式戦車ともブイブイ言わせている。逆に北海道には155mm榴弾砲ではFH70や19式装輪自走榴弾砲は配備されてなく装軌(キャタピラ)式の古い99式自走榴弾砲しか配備されていない。これは冬季はさらさらの雪深くなる北海道の大地では装輪(タイヤ履き)のFH70や19式装輪自走榴弾砲では埋まって動きとれんようになるからとちゃうかとワシは推察する。
泥醉文士
著者は元週刊文春ドケチNデスク後の文藝春秋、元副社長。ほんまに元グラビアデスクだったのかと信じられんくらい、定年後は堰を切ったように、「にゃんこ四文字熟語辞典」やの「世界金玉考」やの写真集から科学的?考察までベストセラー連発である。せめて「にゃんこ」写真ぐらいはわしらカメラマン雇うてくれてくれたってええもんも著作権フリーのカット使うとは、ホンマしっかり締めるとこは締めよるわ。しかし、やはりこのセンスはたいしたもんや。まさにコロンブスの玉子。この出版不況でも絵本だけは不況知らずや。やっぱ子供と親がしっかりコミュニケーションとれるんはスマフォやゲームではあかんわ。それにしても次から次へと。次はワンコかいな…
新刊情報
不肖・宮嶋 報道写真集「歴史は夜作られる」THE NIGHT RANGER
明石市立文化博物館にて開催中の不肖・宮嶋報道写真展「歴史は夜作られる」と同じタイトルの写真集である。ただ普通の印刷の写真集と違い、インクジェットでつくられたむちゃくちゃ印刷がきれいな写真集である。プリント・オン・デマンドとかいうシステムでも近々出版予定やが、まあ制約がむちゃくちゃ多いうえ、紙質うっすいうえ、サイズも小さい。なんでぜひこちらの写真集をお薦めしたい。今は写真展会場でしか販売してないし、144ページで4000円ちう値段はそれでも赤字である。それでもこのコロナ禍、ぜひ見ていただきたく、奮闘した。