発行 | 産業経済新聞東京本社2024 |
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定価 | 一部140円 月ぎめ3,900円(税込み) |
今回の「話の肖像画」では、フィリピン政変から遅れること1年、初めての実弾飛び交う戦場取材となったルーマニア政変の話を語らせてもろた。そもそもあの当時1989年はベルリンの壁崩壊時、多くのカメラマンがヨーロッパに駆けつけていたがルーマニアまで来たのはわずか、日本の新聞、テレビはほとんど現れず、数少ない中に朝日新聞が社運をかけて世に出した週刊誌「アエラ」が長期ヨーロッパ取材のため首都ブカレストに来ていた。ワシはというと、実はベルリンの壁というより、オウムの首魁麻原晃彰や坂本弁護士一家殺害事件の首謀者、早川、村井といった幹部らがこぞって渡欧したのを追いかけていったついでやったのである。この時坂本弁護士一家を皆殺しにした早川、新実、村井らは現場にオウムのバッジを落としたことから、他にも証拠をのこしたんではと疑い、熱したフライパンに指を押し付け指紋を消そうとしたという身の毛もよだつことやりよって、渡欧は高跳びしてしばらく様子を見ようという意味合いがあったのを事件発覚後分った。実際、この語石垣島空港で早川を見たときは初夏の南の島で公衆電話しょっちゅうかけまくっていた間も両手の軍手を脱ごうとせんかった。そないなことは当時知る由もなく、麻原一行に遅れる事3日、モスクワ経由でフランクフルトへ。空港でレンタカー、フォルクスワーゲンのポロを借り上げ、当時の西ドイツの首都ボンには近いからその日のうちに着いた。ボンには生意気にもオウムは支部を構えていて、麻原はそこで記者会見をやっていたのである。しかし、ワシがボンに着いたときには、麻原はこれまた支部のあるニューヨークに渡った後、ボン支部は全くの無人やったのである。当時は日本人いや坂本弁護士一家殺人事件を現地の神奈川県警でさえ「殺人事件」でなく「失踪」と扱い、全く捜査する気配もなかったのである。ドイツ人でこのオウムの脅威に気づいてる市民もほとんどおらず、そのまま無人の支部前でポロに乗ったまま張り込み続け、夜は近所の民宿に泊りながら、近所に聞き込みかけたら、支部の大家が市内のユダヤ人の宝石商と分り、店を直撃したら、領事館に聞いてくれという回答であった。おかしい…当時のボンは西ドイツの首都、それやったら領事館というより大使館やろ、で、3日張り込んでも全く動きがなく、せっかくヨーロッパまで来たんやし、この世界激動の時と場所でベルリンの壁崩壊の瞬間を撮るべく、とりあえず、高校時代の先輩が暮らすハンブルクに丸一日ポロを運転して向かった。ドイツ警察の24時間警備付きのトルコ大使館が入ってるまあ広いとこに先輩は住んでいたが、おりからの寒波で風邪をひいてまい、ベルリンに行くどころやなくなってしもうたのである。異国の地で病になったことはなんどもあるが、まあ心細いが、今回は気心が知れた先輩のしかも広く快適な家ということもあり、不安がなかったが、その病に臥せってる最中にルーマニアが弾けてしもうたのである。もうこれは行くしかないわと、快復した翌日には列車でウィーンで、その夜にブダペストに、そこでは民宿に宿泊しながら、ルーマニア大使館前でのデモなんかを取材してたが、大使館もハンガリー国境も閉鎖されていたから、ブルガリアからルーマニアに向かうべくブルガリア大使館でビザをとり、深夜便でソフィアに向かうたのであるが、そっから先は絶版になったが拙著「国境なき取材団」に詳しい。