硫黄島、航空自衛隊C−130輸送機
フレアー発射訓練
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硫黄島全景。手前がすり鉢山。
 
海軍が炊事場として使っていた100度を超える熱泉。
 
 
 
 
 
米軍が作ったレリーフは落書きだらけ。日本語も見えるがどうも不自然。レリーフ近くには弾痕もある。こちらのレリーフにはアーリントン墓地の銅像と違い二人の海兵隊員が素行が悪かったため四人となった説がある。
レリーフの近くには弾痕がある。現役海兵隊員がここを訪れた折、この旗を揚げた六人だけが英雄ではないと発砲したためと噂である。
 
 
 
武器もそのまま。
壕の中でも入り口が大きくさほど暑くない海軍医務科。
 
最も暑い壕の一つ。これまた乾パンがそのまま残っている。
鍋の蓋を開けると当時の米がそのまま残っていた。
 
私が発見した海軍の暗号発信用紙。慌てて焼却しようとしたため焼け跡が見える。
海軍の便箋も虫がいないため真っ白。
壕内でも硫黄ガスが噴出するためか防毒マスクのキャニスターが見える。
栗林中将が指揮を執っていた壕。足元のケーブルは私が発電機の電源のため設置した。
長い壕の内部は複雑を極める。
 
 
 
 
戦後米軍が港を作ろうとし沈めた沈船群が火山活動の隆起により浮き上がってきた。
 
 
 
 
 
 
 
巡洋艦の艦砲を利用した海軍の砲台。
敵が上陸するまで攻撃しない作戦だったが機雷を除去するために近づいた米海軍の掃海艇に向けて発砲したため位置が露見し米海軍の集中攻撃を受けたため「勇み足砲台」と呼ばれている。
 
すり鉢山頂上にある米軍の戦勝記念碑には現役海兵隊員が認識票をぶら下げていく。
すり鉢山頂上には星条旗を立てた場所に穴がある。向こうは米軍が上陸したため上陸海岸と呼ばれている。
 
 
 
 
 
 
硫黄島戦50周年には栗林中将の未亡人とモンデール駐日大使(当時)も出席した。
 
 
乾燥野菜がそのまま残っていた。
ここでもまだそんなに暑くない方である。
特に暑い壕は天然サウナとして自衛隊員が使用している。
慰霊のため大相撲硫黄島場所の興行がうたれた。土俵入りを終えた当時の両横綱。
硫黄島相撲部員と本物の力士達(当時)。
 
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