讀賣新聞 7月29日号

讀賣新聞 7月29日号 讀賣新聞 7月29日号
■発行読売新聞東京本社
■定価一部150円
月ぎめ(夕刊セットで)4,400円(税込み)

くらし面の連載「たからもの」のコーナーに登場させてもろた。取材は現場でなんどもお会いした吉田記者がカメラマンの横山氏とともに拙宅までお越しいただいた。まあわしは俗物やから、たからもの、というたら高価なものか、ブランド品かはたまた家族の遺品・・・ぐらいしか思いうかばん、というてもわしが持ってる財産で今一番高価なもんいうたら、車・・・はもう古うなって値落ちしたから商売道具のカメラ・・・しかしそれじゃああまりにそのまんまやし・・・とこの取材を受ける前は悩んでいたが、吉田記者が拙著をご覧になっておられ、ワシもすっかり忘れていた「たからもの」のカメラを思い出させていただいた。ワシは商売道具のカメラをなかなか手放すことができない貧乏性で、代替以外で手放したカメラは学生時代から愛用していた「ミノルタ SRT−101」と同じく「ミノルタ XGE」の2台のみ、そのうちSRT−101は写真展開催中にお祝いとしてりっぱに稼動する同一の101を同級生の服部君からいただいた。まあ当時は機械シャッターの今みたら工芸品やから動いて当たり前やが。遺品といえば、3台、父の愛用していた、またワシが生まれて初めて手にした「アイレス 35IIIC」と祖父が愛用したいて、結局もてあました6X6版の二眼レフ「ビューティー・フレックス」そしてイラクで殺害された橋田信介氏の「ライカ」である。ビューティー・フレックスは学生時代課題で使ったのが、最後。出来上がりはレンズが古い設計ということもあり、というか聞いたこともないメーカーというか当時高価だったカメラ、しかも二眼レフにしては安かったので、周辺がかなり流れ、当時「写真基礎IA]を担当されていた松田先生から、「なんだこのレンズは?」と眉をひそめられた記憶がある。ライカIII型はもっとすごい。橋田信介さんはもともとムービーの方、だけど、取材先というか、ベトナム戦争中の数少ないハノイ支局にあった日本電波ニュースの特派員時代に買ったと幸子未亡人に言い残されてたさうで、おそらく当時のライカやから米軍に従軍していていたカメラマンが死んだか行方不明になったか、捕虜になったのをぱくり、二束三文で売り飛ばしたもんかなんかで、いただいたときは動いていなかった。オーバーホールも含め当時のレモン社に代理店を通じ依頼、10万以上修理費がかかり、これは橋田信介の不良債権だったかと未亡人と苦笑いしたこともあった。修理できたといえ、それでも撮り手をえらぶカメラに違いなく、まああたりまえやが、すべてマニアル、そしてフィルム交換がまた複雑怪奇、そんなライカに一度だけお座敷がかかった。カンボジアのアンコールワットを目指す志半ばでクメール・ルージュの手にかかった一之瀬泰造先輩の業績を訪ねてというテレビ番組で、一之瀬先輩が残した作品と同じ場所で同じアングルでライカでどんな作品になるかという内容だったが、まあ10年ほど前やが、一之瀬先輩が下宿していたシェムリアップにはもろそれと分かる同じ場所が残っていたのには驚いた。一之瀬先輩のお母様にはその番組の前には別の番組で、年の数かける一万円で自分を知性を磨く有意義な買い物をするとしたら何を買う?という信じられんぐらいおいしい番組で、当時40代やから40数万で暗室用具、しかも最新式の一級物をそろえ、長い夜を一人一之瀬先輩が残した膨大なネガをプリントしていたお母様に進呈して以来、お付き合いができたが、その生家も先日の佐賀豪雨災害時、だいじょうぶかいな?とのぞいたら、ま新しいマンションに変わっていた。お母様の信子さんは体調がすぐれず、一之瀬先輩のお姉さまの嫁ぎ先の横浜のほうに身を寄せられていたが、昨年亡くなられた。品川のニコン博物館で一之瀬先輩の作品と遺品が展示されていた際、ご遺族にお墓に参りたいとお願いし、お寺さんをご紹介くださった。他にも、ミーハーな役得自慢も恥ずかしいがある。ファンだった江夏豊元阪神タイガース投手と元中日ドランゴンズのフォークボールの名人牛島投手にもサインをいただいて、そのサインもカメラもまだある。さらにロバート・キャパの弟で、写真家でもあったコーネル・キャパのサインも来日時いただいた。最後に漫画家のいしいひさいち氏にも週刊文春連載時、担当編集者を通じ、ご本人に会えなかったがサインと3枚目役の菊池くんの顔といっしょに愛器のヘッドに白マーカーで描いていただいたんやが、なんちゅうても現役のカメラカバーをしていたんやが、摺れてまもなくして見えなくなってしまった。かえすがえすも残念であった。